オー:ここらへんで閉山の時のお話を聞かせて頂ければと思いますが、閉山の時にはどんな空気に包まれていたのか、といった事をお聞きしたいのですが。

中野:同級生がどんどん転校していって、空いた教室に卓球台を置いたり、昭和館という映画館も無人の状態で、映写室に入っては消火器をいたずらしたりしてましたが、同級生がみんな集まって「さようなら」ということがなかったので、そのへんが今同級生とコンタクトがとりにくい原因かなと思います。

オー:中野さんには以前、閉鎖の直前に忘れ物を取りに戻られた時のことをお伺いしたことがありますが・・・

中野:そうですね・・・島を出る時に五寸釘で板を打ち付けて、入れないようにして出たんですけど、翌日電灯など足りないモノをとりに一回戻ったんですが、戻ってみると、その五寸釘がはずされて、ドアは開けっ放しだし、部屋は凄く荒らされてて、その時に泣きたくなっちゃたというか、もうここには戻れないんだと思って、・・・そのつらさを閉山の時に感じましたね。

坂本:私は当時は長崎市内で大学へ行っていて、時々島へ帰っていたんですが、その日船で着いたらドルフィン桟橋(一番大きな船着き桟橋)に両親がよそ行きの格好をしていたんです。どこかへ行くのかと聞いたら、今から広島へ行くんだ、と。その時、あっそうか、端島は閉山したんだ、と思いましたが、そのまま船に乗って長崎へいってしまったんで、最後の私の部屋の様子を知らないんです。25年経って自分の部屋を見たときに、教科書やノートやラブレターなどが残っていて、初めてこの島は終わったんだなと、閉山したんだなと、実感として感じました。



オー:それでは最後に、これからの島に対して、お二人にとってあの島は何だったんかといったようなことを含めて一言ずつお願いしたいのですが

中野:一言で言うと、端島、軍艦島が自分の母親だったな、、、と。
で、現状ではもう廃墟として進んでますけど、自分の母親が目の前に居て末期ガンの状態にあるっていうのをわかりながら、手を差し伸べてあげれない。そのもどかしさを感じながらも・・・言葉になりにくいですね・・・

オー:でも中野さんの言葉をお借りすれば、今日ここでこうしてお話されているということが、末期ガンに薬を投与しているということではないかとも思いますが・・・

中野:ええ・・・

オー:坂本さんはいかがですか。

坂本:7年前に、この島に25年ぶりに訪れて、そこからこの島を保存しようという思いの中で走ってきました。
 そんな中で、この島には人が住んでいたんだ、ということをわかってもらいたいのと、この島はかつて24時間操業で、常に音が鳴ってた。でも、先ほどの中野さんの、母親の話もそうですが、まだこの島ではどこかで音がしてるんだと思うんです。その音を絶やさないように、残そうとしてきましたが、保存という言葉が出始めたのはやっと最近のことです。皆さんの中には廃墟としてご覧になっている方もいるかもわかりません。しかしこの中には人の息吹があった。そしてまた近代化へ向けてのエネルギーがあった島です。

 我々にとってこの島は軍艦島では無く端島です。しかし皆さんの中では軍艦島です。その軍艦島を皆さんがどういう視点で考えて頂くか、単なる廃墟としてみるのか。それともこの島にいた我々とい人間のことを思い浮かべながら、島を思って頂けるのか。また日本や世界の中の軍艦島として見るのか。いろいろな見方が有ると思いますが、私たちが願っているのは、ただ、故郷を残して欲しい!という想いです。

 壊れた故郷を見たくないという島民の方もいます。しかしまっさらになってしまったら我々の心の帰れるところがなくなります。我々の運動もそれだけを支えにやってきました。未来へ向けて世界遺産になるならないは別にして、保存という言葉が国の中から出てきたというのは大きな成果だと思います。

 あとは皆さんの大きな支援があればな、という想いです。

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