オー:それでは炭鉱のお話を、お父様の思い出などを中心に少しお聞き出来ればと思いますが。
坂本:私の父親は17才の時に宮崎から出てきて、筑豊で勤めて、その後端島へ来たので、約三十数年炭鉱におったですね。で、とにかく酒呑みなんですが、酒も呑まずにいられない!っていうのが正直なところなんですね。
炭鉱の仕事は命がけのところがあって、いつ落盤が起こるかわからない。落盤っていうのは穴がふさがれてしまうことですね。炭塵爆発。炭の粉が爆発して吹き飛ばされるっていうこともありますし、また(海底炭鉱の)穴の上は海なんで、潮水が入ってくるんです。だから父親の言葉で覚えてるのは「暑かった」というのと「今日はよく水がでた」というものでした。
炭鉱の仕事は(シフト制で)一番方〜三番方という三交代制なんですが、一番方っていうのは早く帰ってくるんで時間があまってる。近くの飲み屋で「角打ち」(酒屋が店舗の横で呑ませること)をして帰ってくるんですが、時に外の階段の下で寝てるんですよ。近所の人が「道徳さん、お父さん寝てるよ」って言いに来てくれて、近所の人に手伝ってもらって家まで連れてかえるんです。
外で呑まないときは仲間を連れて帰って来て、目をキラキラさせて宴会が始まるんです。で、家の蛍光灯に色セロハンを貼ってやってましたから、キャバレーの感じですね。最初はいいんですが、夜も深まってくると議論が白熱して、喧嘩がはじまるんです。そうしたらもう家にはいられないんで、隣の家へ逃げ込んで、宴会が終わった頃に帰るか翌朝帰るかするんですが、そういった父親の命がけの仕事や、呑まずにはいられない気持ちは、今になったらわかりますね。
オー:外の階段で寝てしまった、というのは、庭のような感覚があったんでしょうか?
坂本:ええあったと思いますよ。ビルの屋上も庭なんで、寝てましたね。
オー:中野さんは、早めにお父様を炭鉱事故で亡くされていますが、なにか思い出とかございますか?
中野:小学校へ上がる前に、落盤事故で死んだんですが、丁度その時公園で遊んでいました。お姉ちゃんが迎えに来てくれて、お父さんが死んだから、と。まだ子供の頃だったので、棺桶のなかで三角巾をつけていたということくらいしか覚えていませんが、同級生の中で母子家庭はうちだけでしたから、酔いつぶれたお父さんを負ぶって帰って、というような経験はないんです。ただ、炭鉱マンにはなるな、というのは言われ続けました。
坂本:付け加えて言うと、事故が起こると言いようのないサイレンが鳴るんですよ。そうすると、先ほど番方の話をしましたが、自分の父親がいま何番方かな、とまず頭に浮かぶんです。だから炭鉱で育った子供だったら、あのサイレンの音を聞くと、何かこう言いようのない感覚に襲われるんです。
オー:他にお知り合いのお父さんで亡くなられた事はあったんですか
坂本:火事ですね。この島で恐かったのは炭鉱の事故と火事です。火事が起きてもそれを消すための消防車が走ってこれないわけですよ。船で消火するしかないし、船が来るまでは島内の消防団でやるしかない。でもなかなか消せないので、2回火事の経験がありますが、どちらも亡くなった方がいらっしゃいます。
オー:道で寝ていたお話や、消防のお話などから、凄く連携というか連帯感がある島だっのかと思いますが、今の生活と比べてそのへんの違いなんかはどうでしょうか。
坂本:今日中野くんと会うのは30年ぶりなんですが、会っても違和感がなく、あっ、ていう感じで思い出せる。そういう感覚っていうのは端島の人に結構多いですね。今は市内の団地に住んでますが、隣近所のことは殆ど知らない。でも、端島では全島民が全員知ってる。だから街で今会っても、この人は端島の人だったな、っていうことがわかります。それは島が狭すぎたからからで、都会だったかどうかはわかりませんが、島が小さな村だったなという気がします。
中野:この前R30(9/29にTBSでオンエアされた軍艦島のドキュメンタリー)をご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、そこにおばさんが出て話をしていたと思います。駄菓子や文房具を売ってたお店のカヨちゃんって呼んでたんですが、カヨちゃんが私の長女と同級で、そういったように兄弟との繋がりでみんな知ってる。私の同級生にも道徳さんの妹さんがいて、知らない人がいないという繋がりが全てにあったと思います。