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三菱崎戸炭鉱 1/5
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 長崎県の北寄り、佐世保港から高速艇で約1時間の洋上に浮かぶ蠣浦島(かきのうらしま)に発展した崎戸炭鉱は、明治四十年(1907)から九州炭鉱汽船によって開発が進められ、福浦坑(三坑)浅浦坑(二坑)蛎浦坑(一坑)を次々と開坑。昭和十五年(1940)に三菱鉱業の経営下になり、その3年後には100万トン強を産出、従業員も7,500人強を数える日本有数の炭鉱に発展した。

 しかしその発展の裏には三菱系炭鉱ではで最多と言われる、強制連行による中国や朝鮮からの労働者の影があったことも忘れてはならない。過酷な労働条件から「一に高島、二に端島(軍艦島)、三に崎戸の鬼ヶ島」と恐れられた時期もあった。

 エネルギー革命の渦中、昭和三十九年(1964)に一坑閉山、昭和四十三年(1968)に二坑が閉山して、半世紀にわたる炭鉱の歴史に幕が降ろされた。長崎県下では最大規模の炭鉱だった。

 崎戸炭鉱は一坑(本坑)地区と二坑地区に大きく分かれ、初期から開発された大規模な一坑地区には最も古い福浦坑(後に三坑)と蠣浦坑(一坑)があり、いずれも斜坑だった。また島南部の一坑より規模の小さかった二坑地区にあった浅浦坑には、2基の鉄骨櫓が聳える深さ200m強の竪坑があった。
 現在一坑地区には坑口跡や巨大な選炭工場跡の他、発電所の煙突や捲座、そしてぼたホッパーなど多数の炭鉱施設が残存し、また二坑地区にも坑口跡他、シックナーやホッパーなど多くの炭鉱施設が深い草に埋もれて静かに眠っている。比較的用途がわかるこれらの残存遺構には、かつてここに炭鉱があったことがはっきりと現れている印象だった。

 逆に居住施設は、土地が広かったせいかその多くが木造長屋タイプだったため殆ど残ってはいない。かろうじて鉄筋コンクリート造の共同アパートや小学校の校舎などが残っているものの、閉山からの年月が長く、当時を偲ぶ面影を見つけることは困難な状態になっている。炭鉱施設とは反対に、かつてここに人がいたことを連想することは難しく、異世界へ迷い込んだかのような錯覚を覚える光景が広がっている。

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A:福浦坑捲座 B:福浦坑(三坑) C:油倉庫※崎戸町歴史民族資料館敷地入口の脇 D:蠣浦坑(一坑) E:ボイラー煙突 F:福浦発電所煙突 G:選炭工場 H:ぼたホッパー I:福浦会館(崎戸劇場)映写室 J:平和寮 K:崎戸塩水プール L:33元気ランド M:末広ガード N:昭和小学校 O:美咲アパート P:菅峰アパート Q:浅浦坑(二坑) ※現存遺構を中心に

 炭鉱閉山後、製塩と漁業、そして観光を主な産業とする崎戸は、炭鉱施設が残るノスタルジックな風景を再利用した「スケッチの街」等の企画とともに「いやしの島」として地域活性化の新しい道を模索している。

 また崎戸町歴史民族資料館には、炭鉱時代を今に伝える資料が多数展示されている。右画像は、館内に展示されている崎戸労働組合の旗に記された労組のシンボル。「S」は崎戸の「S」、「U」は組合を意味する union の「U」
◆ 崎戸歴史民族資料館 ◆
崎戸町蠣浦郷1224番地5 0959-37-0257

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 人の飽くなき欲望が開発を生みだし、本来人が住まなくてもいいような孤島を人であふれかえらせ、自然を破壊しながら、時には人を人でなくしてまで夢を実現してゆく。そして欲望の対象が変わると、あっさりとその舞台を捨て、次の欲望の対象を求めて彷徨う。後に残されたモノたちは、無言で語りかけながら、残された者たちと共に未来をみつめるしかすべがない。せめてかつての栄光が自然に還ってゆく姿を「美しい」と言って讃えてあげたいと思う。
 崎戸炭鉱の現在の様子は O project 制作『萌の季節 -Ruins in green-』に収録されています。

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